第78話   釣の歴史書「垂釣筌」の復刻   平成16年02月04日  

江戸時代の庄内の釣史を調べるには陶山槁木の「垂釣筌」が最適である。

他にも秋保親友の野合日記などの様な武士の日記や覚書などの端々に釣の事が書いてあるものは存在し貴重な資料になってはいるが、「垂釣筌」のように全文が釣だけのものは他に存在しない。

ただ、全文が漢字で表記されている為に漢文の素養のある釣好きの武士の間では盛んに模写されたり、回し読みされていた書であった。又、全文漢文であったが為にたった数十年経た明治、大正の間にはすでに一部の知る人ぞ知る「幻の書」となっていた。江戸時代には盛んに模写され多くの模写が残ってはいた筈であるが、明治、大正に入り漢文を読める人が少なくなって来ていたであろう事は容易に想像が出来る。大正時代の武士の子孫であって、釣好きの土屋鴎涯は当然のように漢文の素養を持っており、それを読み自分の戯画の種本として記している。

陶山槁木の庄内磯「加茂から由良に及ぶ」
(通称釣岩図解)が先に書かれていて、周囲の釣り好きの武士たちより指導書の著作を懇望されて「垂釣筌」が書かれたと云われている。釣岩図解は磯の釣り場の詳細図で竿の位置とか詳しく書いてあり、漢文を読めないものでも見れば分かることから町民の間でも模写に告ぐ模写でそれに新たに新しい釣り場を加えたものが釣具屋などを通して盛んに巷に配布されていた。

昭和13年頃酒田の本間家の分家に生まれ釣好きであった本間祐介氏が竿作りの為に鶴岡の名竿師山内善作に師事していた。その頃「垂釣筌」本の所在を知り、原本を写真に撮り出版を思い立ったが、あまりに高価なものとなるを知り断念した。ついで昭和14年来酒した中央で釣の本を書いて有名であった佐藤垢石氏が釣雑誌にぜひ発表したいとの事で貸したが、故人となり写真の原版が行方不明となった。

その後酒田の釣師で竿師でもあった中山賢士が原本を模写、それを郷土史家甲崎環が模写し原本と照合した。その甲崎本に訳注をつけた人物が遠田正規という人物で昭和399月から7回に渡り庄内日報に連載し紹介したという。

遠田正規氏が鶴岡市のある釣具屋から、かつて本間祐介氏が貸して佐藤垢石氏が東京へ持ち去ったと云う写真原本のもう一揃えを偶然発見し本間美術館(館長本間祐介)へ寄贈した。そこで本間祐介氏は中山賢士の模写本を更に模写し佐藤常太郎氏訳注をつけていた模写本を借受けて、寄贈された写真原本と照合し、漢学者渡辺信治の郎氏の翻訳で「垂釣筌」を昭和51年本間美術館より限定本として発刊したというものである。

本間家の分家に生まれ一時は釣具屋と竿師を志した本間祐介氏であったが、数奇な運命は戦中、戦後の当主死亡、農地改革さらに建直し等の危機存亡に駆り出させられたが、それらを無事やり遂げて本間美術館の館長に退き自ら郷土歴史の発掘を行った人物でもあった。なお、本間祐介氏は釣に関しての本もいくつか書かれている。